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↓↓以下、ネタバレ注意↓↓

■山崎彬『春よ行くな』構想ノート(1)

『春よ行くな』最初のイメージ。

例えば、誰かを好きだと思う。
容姿だったり、声だったり、考え方だったり、優しさだったり、手触りだったり、匂いだったり、と、言葉にすれば、何かの、言葉になる。
その言葉になる前の「何か」。

例えば、その誰かに好きだと伝えたいとする。
「すき」と言ったり、「好き」と書いたり、花束を贈ったり、歌を歌ったり、ダンスをしたり、抱きしめたり、キスをしたり、と、表現すれば、何かの。表現になる。
その表現になる前の「何か」。
こういったものを描いてみたい。と、思った。まだ、できるのかはわからない。

ひとつわかっていることは、僕は「何か」を感受して『春よ行くな』を発信したいと思っているということ。僕自身の「何か」を見つけることが出来れば、きっと『春よ行くな』は演劇になり得る。なり得るはずだ。

■山崎彬『春よ行くな』構想ノート(2)

人は見失い続けるし、そして別れ続ける。
こんな当たり前のことさえも僕は見失うし、「そんなわけはない」と別れようとする。だけど最近、このことが当たり前のことなのだと、きちんと思えるようになってきている。

今までの僕はこう思っていた。
大切な何かを見失ったり、愛する恋人と別れたり、絶望と背中合わせの見失いや別れは、どんなに頑丈な箱に入れて片付けても記憶の海底(うみそこ)で永遠に残り続ける。けれども、そのことを忘れさせてくれる出来事を手に入れたり、かけがえのない人と新しく出会ったりして、背中にひっついた絶望から目を背けさせてくれるようなバランスが存在するじゃないか?って。

なーにかっこつけてんだー。

そこから少し変わってきている感覚がこう。

4日前の夕暮れ時に手に入れたキラキラ光る宝石のことを僕は1秒も見失うことなく4日間過ごしてきたかと言われればそうじゃあない。2日前の夕飯でラーメンをすすっているとき僕は、あの宝石のことではなくラーメンのことしか見えていなかった。
ウキウキしながら街灯に照らされ輝く雨に濡れた道を歩く僕は、さっきまで一緒にいた愛おしい人とバイバイして別れたばかりだ。ウキウキ歩いているこの瞬間に彼の人がこの世からいなくなっていないと僕は言うことができない。

えっと、手に入れた新しいものってのは。

希望を見失い、愛と別れることと同じくらい当たり前に、
絶望も見失い、憎しみと別れることができるんじゃないか。
ならば、
見失った希望ももう一度手に入れられるし、別れた愛も違う形で再会すると思える。
そして僕はきっとこの「何か」をこうやって文章にし終わった後、この「何か」も見失い別れ、夜、当たり前に眠るんだ。朝、もう一度、手に入れて、再会するために。

春は行ってしまうことを知っているのに「春よ行くな」と叫んでしまうね。
夏は絶対やってくると知っているのに「早く夏になれ」と叫んでしまうね。

『春よ行くな』は、愛と別れた女が憎しみと別れるまでの物語になる気がする。
出来る限り哀しいものではなく、当たり前のことを当たり前のテンションで描きたい。
「春よ行くな」と泣く夜は、ただただぐっすり眠るのが一番。
これくらいの当たり前を描きたい。描きたいと思ってるぞ。見失うなよ。

■山崎彬『春よ行くな』構想ノート(3)

作品はどこでもドアのようなもので、ひとりぼっちの部屋に現れて、どこへでも連れて行ってくれる。ドアを通って辿りついたところが知っている現実であっても、それまでのものとは少し違って見せてくれる。つまり、〝あなた″と〝現実″をつなぐ架け橋に〝作品″があれば・・・、なんてことを、おこがましくも思っていた時期があるのだけれど、近ごろ、どうもそうではないような気がしてきている。
たしかに〝作品″を〝あなた″に届けて〝あなた″が〝現実″の新たな一面に気づくということだってあるだろうから、完全に間違っていることではないように思えるし、僕自身も何かの〝作品″によって救われ、見えるようになった〝現実″があるような気もするし。

だけど、何だか〝作品″が偉そうに威張ってる気がして、しっくりこなくなっている。
価値観なんて変わるさ。うん、気持ち悪いってことは、今の僕にはきっと、違うんだ。

技術的なことを言えば、〝現実″は〝あなた″と〝作品″をつなぐ架け橋になるだろう。〝現実″は〝作品″を紐解くヒントみたいなものにもなるし、〝あなた″がたくさんの〝現実″を知っていることで〝作品″をより楽しめることもある。逆に、〝あなた″が見てきた(あるいは、見てこなかった)であろう〝現実″を夢想して、新たな〝作品″が出来上がることもある。

だけどそれはシステムの話。僕はそんなことには興味はない。もっと夢みていたい。

近ごろハマっている考え方は、〝あなた″が〝作品″と〝現実″の架け橋だというやつ。〝あなた″が、〝あなた″の想像力が、「なんかよくわからんやつ」を〝作品″にしてくれるし育ててくれる、〝作品″を〝現実″まで、〝現実″を〝作品″まで連れてきてくれるんだなぁってやつ。

僕は『春よ行くな』で〝あなた″の想像力を刺激したい、まだ出会ってない想像力に出会ってもらいたいなぁと思っている。〝あなた″のために作り続けて、そして、いつか、もっと上手になったら、僕自身のために作ってみたいと思っている。爺さんになったら、いつか。

それでも同時に、いつもこれが最後だと思って作る気持ちは、『春よ行くな』でも変わらないんだろうな。いい調子だ。そろそろ、具体的なことを、ノートに、書き始める時期がやってきた。震える。

■山崎彬『春よ行くな』構想ノート(4)

『春よ行くな』の物語について考え始めているのだけれど、ここにきて、言葉や行動になる前の「何か」なんてものに手を出してしまった自分がよくわからなくなってきている。まとまらない考えを無理矢理にでもまとめて文章にして記すのが構想ノートだと思うので、そのまとまらないものさえも愛おしいのだけれど、さらにそれをまとめて演劇にするということが、なんか反対どおしで引っ張り合う矢印を描こうとしているようで。まあいいか。

きっと感覚的な舞台ではあるのだけれど、けっして物語や現実から逃げたくは遠ざけたくはなくて、どうしたものかという思いもありながら、ここを抜け出すヒントが『上演されている演劇の今』をどう描くかな気がする。いや、きっとそうだ。

あらかじめ決められた未来へ美しく向かうために、稽古場で何度も過去に戻される、今。そして過去に戻されたことに何の文句も言わず、再び今として生きる人物たち。

やっりきれねぇっ!おえーっ!
うーん。

お客さんが観る、あらかじめ決められた未来に向かう演劇の今を、あらかじめ決められた今に向かう過去にみせないために稽古をするのだけれど、おそらく今回は、あらかじめ決められた今に向かう過去のまんまで観てもらっても心震える物語を与えてやることが人物の供養だと思う。

過去を今と感じ、今を未来だと思えない人物の物語。その人物は人生の一部しか他人(お客さん)に見てもらえないのに、それがすべてだと思われてしまう人生を背負うんだもんな。なるたけ彼らに失礼のないようにしてやりたい。僕たちはきっと『春よ行くな』の人物のすべてを誠実に上演してはじめて、彼らの一部が描ける。その一部でお客さんの想像力を刺激する物語。お客さんの頭の中で完成する物語。書きたい。作りたい。

別れの物語。これは決まり。
別れに付きまとうのは記憶だよなぁ。記憶と事実って違うよなぁ。記憶は過去。過去と事実って違うのか。僕が過去と呼ぶものって、事実と全然ちがうものなんだな。
ずっと考える「何か」。「何か」は何か。
「何か」は実際の言葉や行動とは違うもの。

「何か」は記憶と過去に似ていて、言葉や行動は事実に似てるね。

あー、そうか。わかった。主人公の女の名前は『天上底(テンジョウソコ)』だ。
底ちゃんって呼ぶことにする。底ちゃん、よろしく。

■山崎彬『春よ行くな』構想ノート(5)

目に見えるものが真実ではなく、見たものに対して自分の中で拡がった意識が真実だ。

僕たちは林檎を林檎として見ることを強制されていて、同時に、他人も林檎を林檎と見ていると強制してる。紅くて、丸くて、甘酸っぱい果物だと、誰もが見ていると強制してる。紅とは林檎の色で、丸とは林檎の形で、甘酸っぱいとは林檎の味で、トマトを見て林檎と同じ色だと、サッカーボールを見て林檎と同じ形だと、恋をして林檎の味に似ていると、強制してる、されている。

だけど、ここに、林檎をわたしの心臓だと見ている人がいて、その林檎をあなたも見ていて、その林檎についてふたりは話している。林檎をわたしの心臓だと見ている人とあなたは決して分かり合えないはずだ。はずなのに、ふたりは分かりあおうとする、分かりあったりもする、分かりあえなかったりもする。林檎に対して拡がる意識がそもそも違うのに、だ。

あなたはその人が林檎として林檎を見ることを分かりあったとするのか、それとも、あなたが林檎をその人の心臓として見ることを分かりあったとするのか、どちらが分かりあえたことにするのかな。

こう考えていると、分かり合えるということは本当に恐ろしいことのような気がしてきて僕は、電気を消して天井を見つめ続けるしかない。その僕を見てあなたは、僕は何もせずただ寝ころがっているという。外に出て空気を吸って、おいしいものでも食べなさいと言う。

僕がこの部屋を出たのは必然だった。
ただ、分かってくれないあなたから逃げて部屋を出たのか、分かってくれる誰かを探して部屋を出たのか、そのどちらなのか、僕にはまったく分からない。分からないのに、あなたはきっとまた僕に、どうして部屋を出たのか、その理由を問うんだろうなと、ふたつとなりの駅前のコンビニで、特に興味もない漫画雑誌を立ち読みしながら、思う。

「この人物はどうしてこの行動に出てこのセリフを言うのか」

自分の行動の理由、そのすべてもわからないくせに、俳優は役の、いや違うな、人は他人の行動に、言葉で理由をつけようとする。そんなことがやりたいんじゃない。わからない、わからないけどきっとある理由、言葉にできない理由、つまり今回描きたい「何か」そのもの、それを描くためには、とにかく分からないことを分かり合おうとせず、分からないまま舞台に乗せることが大切だと思うし、それは怠慢ではなく、とても普通のことだとも思う。

僕は天上底の全てを知らない。全てを知ることはない。自分が書くのに、それでいいと思っている。なぜなら僕は僕の全てを知らないからだ。僕が『春よ行くな』でやらなきゃいけないことは、言葉で説明できないものを台本として起こすこと(きっとものすごく苦しい作業になる)、そして、嘘をつかないこと。
これは俳優に、スタッフワークに求めることでもある。
当たり前のことを、当たり前に描きたい。

■山崎彬『春よ行くな』構想ノート(6)

 二時間なら二時間、ショーアップされた非日常を描くのではなく、波のように自然に、
一気に押し寄せては返す日常のコラージュでこそ、非日常を描きたい。
特にこの『春よ行くな』は。
 僕の生まれてからの三十年は、三十年かけて見るとたいしたことはないけれど、
これが二時間で描かれるとしたら、それなりにおもしろいものになると思う。
誰の人生だってそうだ。
そういう演劇でありたいと、ここ数年は思っていて、色々試してきて、今回はいろいろな踏ん切りがついた。

 先日からゆるゆると始まった稽古だけど、稽古初日に俳優さんたちに
「餃子の王将でフルコースを食べたら、最後に飲む水はびっくりするくらいクソうまいんです。
そういう演劇にしたい。最後、ただの水を出すだけで、とてもカタルシスを感じられるような、そういう」
みたいな話をした。
覚書として、ノートに記しておく。
 もちろん物語はあるのだけれど、稽古場で俳優さんのからだを通すことで、大きな変貌を遂げるだろうし、
それに合わせて台本は書きかえていきたいし、そういったものしかもはや信じられない。
自分自身でさえうまく演じられないのに、役(他人)になると「この人のここでの感情はこうだ」
みたいなことを軽く言い放ち、演じた気分になるそういう俳優はひとりもいらなくて、
日々自分なりの全力でしか生きられない人間をきっちり存在させたい。
 稽古は始まったばかりだけど、僕の今回の仕事は演出しすぎないこと、つまりシンプルにその人間を描くことだと思っている。
嫌なことを言う人は嫌な風には言わないし、哀しいことを吐露する人は哀しく言おうなんてしない。
普通にしているのに嫌さや哀しさをまとう人間を描かなきゃならない。
きっとそこにこそ、『春よ行くな』というタイトルが表している通りの哀愁とおかしみがあるに違いない。

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 自分のことは不確かなのに他人のことは確かな気になって生きているということは、
同じく他人は自分を確かなものだと思っているだろう。
不確かな自分を確かにするのではなく、他人が確かだと思っている自分を舞台の上に乗せなきゃダメだ。
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 本番が楽しみ。僕はお客さんの想像力を1ミリも軽んじていない。
そこを借りる。
最初の10分で脳味噌をどこまでグニャグニャにするかにかかっている。この作品は。

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 天上底(テンジョウソコ)免罪符揺(メンザイフユレル)小笑顔唇(コエガオリップ)
 戦泰平(イクサタイヘイ)慮公平(オモンパカルコウヘイ)美里多里綺麗(ミリタリキレイ)・・・・・・

■山崎彬『春よ行くな』構想ノート(7)

 言葉や行動になる前の「何か」を描くための俳優の演技に関するメモ。
 今回「何か」を描くに当たって俳優に求めているものは、すごくシンプルだ。
いかに純粋に舞台の上に立つかということ。そして素直に表現するということ。
 だけどこ「純粋に」「素直に」っつうものはとてもやっかいなのだ。
「純粋に」「素直に」と思った瞬間それは純粋でも素直でもなくなる、
しかし何も考えず舞台に立つことは純粋でも素直でもないという矛盾。
純粋さと素直さを意識的にからだに乗せながら、意識から省く。
これをやらなきゃいけなくて、もうからだはパンク寸前になると思う。
だけど僕がみたいのはまさにそれでパンク寸前のギリギリの俳優。
パンクしてはいけないし放出してはいけない。そのパンク寸前をからだに乗せて欲しいのです。
 具体的にやろうとしていることは、からだの周りに流れる空気をまず意図的に流す、そしてその空気の流れに身を任すこと。
あくまでキッカケは人物の見る情景から起こして、あとはどう増幅させるか。
セリフも、まるで誰かに言わされているような感覚で吐いて欲しい。
「やる」演技はいらない。「なる」演技が欲しい。

路上にぽつんと咲く一輪の花。
これを見て人は「美しい」と思い「儚い」と思い「嬉しい」と思い「気色悪い」とも思う。
その人が「美しい」と思う場合、俳優は「美しい」と思うことをしてはいけない。
「美しい」と思うことを表現してはいけない。
「美しい」と思える器をただからだの中に作り、そしてただ花を見るだけでいい。
そうすれば「美しい」と思えるはずだ。
同じく、花に対する美しさの解釈を俳優独自の感性でしてもいけない。
それは俳優自身の「美しい」であって、人物の「美しい」ではない。
俳優にしてほしいのは、「美しい」の解釈ではなく、人物の感じる「美しい」を感じるために、
花を何として見るか。
花にどのようなイメージを足せば、人物の「美しい」に近づけるか。
花の上空一千キロメートルから細長い光を花に射し込むか、
はたまた、花の花弁の隙間から顔を覗かせる白蛇にクネクネと踊らせるか、
つまり花をどう見れば人物の「美しい」に近ずくかをイメージし、そして同じくただ見るだけでいい。
そうすれば「美しい」と思えるはずだ。

セリフや行動になる前の何かしらの衝動があればそれさえも放出してよい。
というよりそれさえ放出していればセリフなどどちらでもいい。
いやもちろん言うのだけれど。
論理的に組み立てるべきなのはセリフや行動の段取りではなくて、衝動とイメージの組み立てである。
論理より衝動を。
衝動があって、それを放出するために論理を使う。
論理から入った表現でおもしろいものなどこの世にない。

心がスッキリ晴れることと、頭が完全に狂うことは、とても似ている。

■山崎彬『春よ行くな』構想ノート(8)

(注:今回は、少しだけ戯曲構造および演出のネタバレがあります。観劇後に読んだほうがいい情報かもしれません。ご判断はお任せします。 山崎彬)




※スタッフワークについて。
 シンプルであり、歪(いびつ)。今回はそこを求めたい。
 相反するようだけど、僕の中のイメージでは成立していて、物語もそこを描いてゆきたい。のでお客さんの脳味噌がぐにゃんぐにゃんなるような感覚を持って帰ってもらう為にはと考えていきついた。
逆のものをひとつにするというよりは、目や耳からの情報を脳がシンプルなものをシンプルと認知してしまうことを利用して、そこをどうズラすか、そういうルートで作品を感受してもらえたら、と。
 階段があると思ってなかったときの「ガクンッ」の感覚、りんごジュースだと思って飲んだらビールだった時の「ウエッ」の感覚、そういうもの。
 
※戯曲では描かれない部分について
 『春よ行くな』では、戯曲上で描かれていないエピソードが多数ある。天上底の戯曲外での恋愛遍歴、春は本当に存在するのか、狂っているのは誰なのか、など。
 その描かれない部分を想像してもらう為には、俳優は演技の中に内包しなくてはならない。と思う。内包すれば、観た者を刺激し想像を促すことができる。と思う。ただ内包とは、「思って、別のことを言う」とは違う。
 例えば殺人者が「あなたはあの時間、どこで何をしていましたか?」と、殺害時刻のことを聞かれ「家で寝ていました」と答えても、殺人者の中では殺害の記憶が蘇った上での返答になる。このことは明らかだ。
 ここで俳優は「殺したことを思い出して(あるいは思って)」返答しがちだけれども、そのことをしたところで「家で寝ていました」というセリフに引っ張られた演技しかできない。なぜなら、殺していないから。
ちなみに、わかりやすく「焦った感じで」言うなんてのは論外。
 思うことがいらないというわけではなく、もちろん思うに越した事はないのだけれど、演じる上で何をすべきかというと、『思える状況になるからだへのどんな負荷をかけるか』(俳優の内側への負荷)と『内包していると観客に(ちょうどいい分量で)与えられる状況にからだがなってしまうにはどんな負荷をかけるか』(俳優の外側の負荷)、このふたつを考えることだと思う。
 今作ではこのことを徹底していきたい。
 戯曲も、「本来、人物がいいたいこと」「人物がイヤでも思ってしまうこと」を書いた上で、思い通りのあるいは思いとは裏腹のセリフと行動を書くというやり方で仕上げた。

とにかく、言葉や行動になる前の「何か」を描きたい。
その「何か」は、観客の頭の中に旅することを夢見ている。

旅のしおりも作った。荷造りもした。貯金もおろした。あとは、出発するだけだ。
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